「……あれっ?」

路地裏の角を曲がったカノンは、眼前に広がる全く見覚えのない光景に小首を傾げた。今日、しかもこの数十分程度の間に、カノンは何度同じ動作をしただろうか?。本人ですら、最早正確な回数は覚えていなかった。

「っかしいなぁ……確かあそこを右に曲がって真っ直ぐ行けばよかったはずなのに……」

記憶の中の地図を辿りながら、カノンは1人ブツブツと呟いた。確か表通りに向かって歩いていたはずなのに、角を1つ曲がるたびごとに見覚えも人気もない路地に入り込んでいるような気がする。いや、気がするのではなく、完全にそうなのだ。

本人は決して認めたくはないのだが、とどのつまり、カノンはここで迷子になっていたのである。

この日、カノンは1人でアテネ市内に来ていた。冥界との聖戦が終わり現世に蘇って13年ぶりに地上で生活を始めた当初は、カノンもすっかり様変わりしてしまったアテネ市内には不案内で、必ず誰か……主にミロだが……と一緒に買い物なり何なりにきていたのだが、数ヶ月が経ちようやく慣れてきた昨今では、1人で来ても殆ど動き回るのに不自由することはなくなっていた。それに元々、荒んだ少年時代にはこの街の裏通りを根城にして悪さを繰り返していたのだから、カノンにとって基本的には勝手知ったる何とやらの街である。それだけに少なくとも兄のサガよりはカノンの方が、遥かに早く様変わりしたこの街にも順応していたはずなのだが……。

「あれぇ〜?、この道ってどこに繋がってたっけ?」

表通りよりは裏通りの方が、移り変わりが激しくない。自分が縦横無尽に駆け回っていた頃とそう大きく変っているはずもないのに、それでも13年の歳月はカノンの記憶の中の地図を微妙に狂わせていたようだ。進めば進むほどわけのわからない場所に出てしまい、一向に表通りに出れないのである。

「……マジかよ……」

ここまで来たらさすがにカノンも、自分が迷子になっているのだという状況を、自覚せざるを得なかった。だがここでブイブイいわせていた過去があるだけに、今のこの現状はカノンのわけのわからないプライドを些か傷つけずにはおれなかった。というよりも、自分で自分が情けなくもなるだろう。何しろ、御年28歳の迷子なのだから。

「まいったなぁ、どうすっかなぁ〜?」

半ば途方に暮れて、カノンは空を仰いだ。今、自分がどの辺にいるのかも、もういい加減よくわからなくなっている。このまま闇雲に歩いたところで、疲れるだけであることも目に見えていた。まさかこんなことになるとは……と、カノンは天に向かって大きく溜息をついた。

今日のカノンは、明確な目的があってここに来ていた。明後日に迫った恋人・ミロの誕生日。そのプレゼントを買うために、カノンは1人こうして市内まで出てきていたのである。

プレゼントとして買うものは決めていたし、買う店も決めていた。その店にカノンが足を運んだのは初めてだったが、それとなくミロから場所を聞いていたそこは、ミロの言っていた通り、表通りから少し入ったところにひっそりとあった。そこまではカノンも全く迷うことなく辿り着き、目的の物も無事に買うことが出来てカノンはご機嫌で店を出てきたのだが、まさか直後こんなピンチに陥る羽目になろうとは、誰が予測できただろうか。一体どこでどう道を間違ったのか、今となっては皆目見当もつかないのだが、恐らく店を出た直後に入る道を間違えたか曲がり角を間違えたかしてしまったに違いない。みっともねぇ〜と、カノンは無意識のうちに呟いていた。

さて、どうしよう……?。カノンは今度は顔を地面の方へ俯け、腕組みをして考え込んだ。正直なところ、こんな風にウダウダ悩む必要はなかった。テレポートで聖域まで帰ってしまえばいいだけの話なのである。だがカノンは聖域を出たら聖闘士の能力を使うなとサガに厳命されており、その手前上、テレポートは最後の最後の本当の最終手段だった。

他の人間が聞いたら、『そんなもん、黙ってりゃわからないだろう』と言うだろうが、サガとカノンの場合は双子マジックという特有の繋がりがあるため、聖域以外で迂闊に小宇宙を燃やすとダイレクトでサガに伝わってしまう恐れがあるのだ。双子ネットワークが不便なモンだと思うのは、こんな時だった。故に、この手は1番お手軽でありながらも、そう簡単には使えない手であった。それに万一テレポートを使ったのがサガにばれて、その理由を問われたとき、迷子になって帰ってこれなくなったから仕方なくだなどとは、みっともなくて口が裂けても言えない。サガに怒られることよりも、カノンは理由を話さなければいけなくなることの方が嫌なのだ。

まぁ別に迷路に嵌まったわけでもないしな、と、カノンは気を取り直した。

とにかく、これ以上無闇に進むと余計道に迷う恐れがあるので、ひとまず今来た道を引き返そうとカノンは踵を返した。と、その時である。

「カノン?。カノンじゃないか?」

耳馴染みのある声に名前を呼ばれ、カノンは声の方に振り返った。






「あんなところで1人で何をしてたのさ?」

それから約15分後。

無事裏通りから脱出を果たしたカノンは、メインストリートのカフェでアフロディーテと向かい合って座っていた。迷子のカノンに声をかけてきたのは、アフロディーテだったのである。思いもかけぬところで思いもかけない人間に会ったわけだが、そのお陰でカノンはこうやって迷子の状況から脱することができたのだから、この偶然とアフロディーテに感謝せねばいけないだろう。もちろん、迷子になっていたなどとは口が裂けても言えないが。

「ん?、いや、ちょっと買い物」

ウエイトレスにコーヒーをオーダーして、カノンはやや曖昧にアフロディーテに答えた。

「ふぅ〜ん、買い物に来て迷子になってたんだ。何?、道でも間違えて裏道に嵌まっちゃったのかい?」

応じてさり気なく返されたアフロディーテの言葉に、カノンは思わず表情を引きつらせてしまった。ヤバイ、これでは迷子になってたことを認めてるも同然じゃないか!とカノンはすぐに気づいたが、時既に遅しであった。

「やっぱり迷子になってたんだ」

自分の誘導に見事に引っ掛かったカノンに、アフロディーテはニヤリと唇の端を吊り上げた。出会った時のカノンの挙動からして、迷子になってたことに間違いはないだろうと踏んでいたアフロディーテだが、さすがに確証があったわけではなかったので、さり気なくそれとなくかまをかけてみたのである。まさかこうも簡単に引っ掛かるとは思わなかったが。

「……誰にも言うなよ」

カノンは往生際悪く否定するような真似はせず、アフロディーテへの口止めで遠回しにそれを肯定した。

「わかってるよ。サガにもミロにも黙っとく」

「サガとミロだけじゃなく、誰にも言うなっつってんの」

「はいはい」

アフロディーテは頷きつつ、今度は楽しそうにくすくすと声を立てて笑った。そこへコーヒーが運ばれてきて、2人の間を流れる空気の中にその芳香がいっぱいに漂い始めた。

「お前こそ、あんなところで何してた?」

ミルクを少し落としただけのコーヒーを一口飲んでから、今度はカノンがアフロディーテに尋ねた。

「ん?、私も買い物だよ」

こちらも砂糖を少し、ミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口飲んで、アフロディーテが答えた。

「買い物?。あんなところでかよ?」

あんな裏通りに、アフロディーテが買い物をするような店があるのだろうか?と、カノンは首を傾げた。

「うん」

アフロディーテは頷いてから、あの先にある靴屋に靴を頼んできたところだと言った。その店は看板も何もでていない、いわゆる知る人ぞ知るオーダーメイド専門の高級店だそうだ。あんな込み入った場所にあるにも関わらず口コミで評判が広がり、今では相当数の顧客を抱えているそうで、常連客には政財界の大物や著名人も多いらしい。

「へぇ〜、そんな店があんのかよ?。知らなかったな。で、お前もそこの常連客なわけ?」

「まぁ、そういうことかな」

アフロディーテはさらりとそれを肯定した。一見すると自慢気に聞こえなくもないが、それが鼻持ちならなくならないのが、アフロディーテである。

アフロディーテ曰く、『靴の良し悪しは値段に比例する』だそうで、靴にかける金はケチらないのだそうだ。それについてはカノンもすこぶる同意ではあるのだが、カノンは既製品のそこそこ程度のもので満足なので、オーダーメイドしようとまでは考えたこともなかった。

「君は?。何を買いに来て迷子になってたんだい?」

アフロディーテは早々に自分に関する話題を打ち切り、ニコニコと微笑みながらカノンに問いを返したが、カノンはアフロディーテのその言い草に憮然とした。いちいち迷子迷子とうるさい奴だと思いつつ、カノンは別に大したもんじゃないよとだけ素っ気無く答えておいた。

「大したもんじゃない……ことはないんじゃないのかい?。何を買いに来たか当ててあげようか?」

だがアフロディーテはその答えでは納得せず、悪戯っぽい笑みを唇の橋に閃かせてから、

「ミロへのプレゼントだろう?。11月8日、誕生日だもんな、ミロ」

と、得意げに自信満々に言い放った。カップを口に運びかけていたカノンの手が、中途半端な位置でピタリと止まったのを見て、アフロディーテは自分が見事に正解を言い当てたことを確信した。

「あっははははっ、君って本当にわかりやすいねぇ〜。とてもポセイドンやら海闘士連中をだまくらかしてた人間とは思えないよ」

今度はアフロディーテはケラケラと声を立てて笑った。それはいいのだが、後半部分の言い様はさすがにカノンもムッとせずにはおれなかった。……事実なだけに文句を言えた義理ではないので、何も言い返すことは出来なかったが。

「で?、何を買ったんだい?」

「大したもんじゃない」

尚も嬉しそうに聞いてくるアフロディーテに、カノンは無愛想に同じ答えを繰り返した。アフロディーテはつまらなそうな顔でふぅ〜んと呟いたが、これ以上聞きだすのは無理と察したようで、それ以上突っ込んではこなかった。

「それにしてもお前、よくミロの誕生日なんて覚えてたな」

自分やサガ、カミュやアイオリアなど、ミロと仲のいい人間ならともかく、アフロディーテがミロの誕生日を知っていることにカノンは些か驚いていた。アフロディーテとミロは決して不仲ではないが、2歳年上のアフロディーテが未だにミロを子供扱いしているフシがあるので、少なくとも対等な友人関係にあるわけではない。そのアフロディーテが、まさかミロの誕生日をしっかり記憶しているとは思わなかったのだ。

「そりゃあ私達黄金聖闘士は、自分の守護星座を冠として被ってるようなものなんだから……嫌でもわかるだろう?」

「そうじゃなくて、オレが言ってんのはよく日付まできっちり記憶してたよなってことさ」

黄金聖闘士は各々、自分の星座を背負って歩いているようなものなので、誰が何座かなどは一目瞭然だが、言うまでもなく各星座それぞれの期間は約1ヶ月間あるのである。星座はともかく、誕生日の正確な日付などそうそう覚えていられるものでもないだろう。実際カノンも、十二宮に住まう黄金聖闘士一人一人の誕生日など、正確には覚えていなかった。

「まぁ、それくらいはね」

事も無げにいいながら、アフロディーテは軽く肩を竦めた。

「そっかそっかぁ〜。ミロのためにプレゼントを買いに来て、それで迷子になっちゃったんだ」

「迷子迷子ってうるせえんだよ、さっきから……」

またそれを蒸し返され、カノンは不愉快そうに顔をしかめて文句を言った。

「だって事実だろう?」

満面に笑みを浮かべて、アフロディーテは言った。だが当事者としては、事実だからこそ尚更他人に言われると腹が立つのである。

「それにしても羨ましい話だね。そこまで君に想われてるんだ、ミロは……」

両肘をテーブルについて手を組み、その上に形の良い顎を乗せて、アフロディーテは下方から見上げるようにしてカノンの顔を覗き込んだ。何が羨ましいんだか、ついでに言うならそれと迷子が何の関係があるのかさっぱりわからず、カノンはまたまた嫌そうに顔をしかめた。

「何が羨ましいんだか。お前にだって、誕生日を祝ってくれるヤツはいるだろうが」

誰とは口にしなかったが、カノンの脳裏にはデスマスクの顔がはっきりと浮かんでいた。

「ま、ね」

だがそれに対してアフロディーテは、短く気のない返事を返しただけだった。そしてそのまま、2人の間に沈黙の時が流れた。

「子供の頃……」

1分程の後、その沈黙を唐突な言葉でアフロディーテが破った。

「私達の誕生日には、サガとアイオロスが必ず誕生パーティを開いてくれたんだ。誰かの誕生日の日は訓練を早めに切り上げて、夕方から皆で主役を囲んでお祝いをするんだよ。大きなケーキと、テーブルいっぱいにご馳走が並んでね。私達は殆ど毎月来る誰かの誕生日を楽しみにしていたんだ」

「え……?」

カノンがアフロディーテの口から子供の頃の話を聞くのは。これが初めてだった。突然の予想もしなかったことに、カノンは軽く目を瞠り、何故急にこんなことを言い出したのかと興味深い視線でアフロディーテの顔を見遣った。

「でもやっぱり自分の誕生日が1番楽しみだった。だってその日だけは、主役がサガとアイオロスを独り占めにできたからね」

「サガとアイオロスを独り占めぇ〜?」

「そう。君も知ってると思うけど、サガとアイオロスは私達にとっては兄というか親も同然の存在だったからね。子供の頃はもう、しょっちゅうみんなでサガとアイオロスの取りあいをしていたものさ」

「……お前も?」

「もちろん」

ますます意外そうに目をパチクリと瞬かせるカノンに、アフロディーテは即答した。ミロやアイオリアならそんな姿も簡単に想像がつくのだが(と言うか、今もさして変らないような……)、このアフロディーテがミロ達に混じって同じレベルでサガとアイオロスを取り合ってたなんて、どうにもこうにも想像できないカノンであった。

「でも自分の誕生日だけはね、誰に遠慮することなく2人を独り占めできて、思いっきり甘えることが出来たんだ。だから誕生日が終わると、早く来年の誕生日が来ないかなって心待ちにしてたよ」

そういうアフロディーテの顔には、満面に懐古の表情が浮かんでいた。こんなアフロディーテを見るのは、無論カノンも初めてである。アフロディーテはそこで一旦言葉を切ると、1口コーヒーを飲み、そして頬杖を突いて窓の外へ視線を向けた。

「……次はミロの番だったんだ……」

「えっ?」

それはまるで独り言のような呟きだった。だがアフロディーテのその小さな呟きは間違いなく、カノンに向けて、カノンに聞かせるために発せられた言葉であったのだが、カノンは殆ど無意識的に短くそう聞き返していた。アフロディーテは視線を外へ向けたまま、一瞬の間を置いて言葉を繋げた。

「13年前の9月……女神が聖域にご降臨された。それから間もなくの、シャカの誕生日まではいつも通りだったんだけどね。その直後だったよ、サガが我々の前から消え、アイオロスの反逆事件が起こったのは……」

アフロディーテはそこまで言って再び口を噤んだが、これ以上言われずともカノンにはその話の先が理解できた。乙女座の次は天秤座だが、天秤座の聖闘士たる老師は前聖戦の生き残りで、黄金聖闘士の中では最高齢。誕生日パーティー云々など、そもそも論外であった。となれば当然、天秤座の後である蠍座のミロに順番が回ってくるはずだったのだ。

ミロのことだ、シャカの誕生日が終わったと同時に、次の自分の誕生日までの日数を指折り数えて心待ちにしていたに違いないことは、当時を知らないカノンにも容易に想像がついた。それが目前で無残に打ち砕かれたとき、ミロはどれほどの傷を心に負ったのかということも……。

「ミロが聖域からプイッと出ていってしまったのは、誕生日の翌日だったよ。誕生日にはサガが帰ってきてくれるかも知れないって、子供心に信じて待ってたんだろうね。でも結局それは叶わなかった……」

それから数年の後、アフロディーテはサガの失踪、そしてアイオロス反逆事件の裏幕を知ることになるが、それでも最後の最後までアフロディーテはサガの所在を、教皇の正体をミロ達に告げることはなかった。

「それからずっと……日本の青銅聖闘士達が聖域に攻め入ってくる直前にアーレス様……いや、サガに呼び戻されるまで、ミロは聖域に戻ってこようとはしなかった」

ミロが十二宮の乱の直前まで聖域を離れていたことは、カノンもミロ本人から聞いて知っている。どこで何をしていたかまでは知らないし、聞こうと思ったことはなかったけれど。

「でもちょうど5年前……ミロは一度だけ、誰にも知られないようひっそりと聖域に戻ってきてたことがあったんだよ」

「えっ?」

驚いたように声を上げたカノンを、アフロディーテは横目でチラッと伺うように見てから、話を続けた。

「忘れもしないよ、5年前の11月8日……ちょうどミロが15歳になった日だ。私は双児宮の、私室のドアの前で、ぼんやりと佇んでいるミロを見たんだ。もちろん、それは偶然の産物だったんだけどね」

当時の十二宮には、教皇の正体がサガであることを知る者、つまりデスマスクとシュラとアフロディーテ、この3名しか残っていなかった。

その日、たまたま十二宮の外へ出ていたアフロディーテは、金牛宮を抜けたところでその先の宮である双児宮に人の気配があることを感知した。いや、正確に言うならば、気配ではなく何者かの小宇宙を感じ取ったのだ。だが双児宮は無人の宮、しかも本来の守護者たるサガは偽りの仮面を被り、教皇宮の玉座に座している。そして言うまでもなく、それはデスマスクのものでもシュラのものでもなかった。一体何者がこの十二宮に、しかも既に3番目の宮である双児宮にまで入り込んでいるのか?。アフロディーテは急ぎ双児宮に向かうと、気配を殺して小宇宙を経ち、双児宮内に足を踏み入れた。

そこでアフロディーテは見たのだ、淋しそうに佇むミロの姿を。

「15歳になって背も伸びて、顔立ちも随分凛々しくなってたけど、間違いなくミロだった。ミロは私の気配に全く気づかずに、まるで木偶人形のようにその場に突っ立ってたよ。もしあれが私じゃなくて敵だったら、どうするつもりだったんだろう?って思うくらい、あの時のミロは隙だらけだったな」

冗談めかした口調で言いながら、アフロディーテは笑った。

「でも声はかけられなかったけどね」

そうだろうな……とカノンも思った。恐らくカノンがアフロディーテの立場でも、その時のミロには声をかけられなかっただろう。その時のミロの様子が、何故か手に取るようにカノンにはわかった。

「それより以前のことはわからない。でも翌年からはミロは姿を見せなかったよ。だから私が見たのは、後にも先にもあの1回きりだったけど……。心のどこかでミロは期待してたのかも知れないね、サガが聖域に戻ってきていることを」

アフロディーテはそこまで言うと、ようやく視線をカノンの方へ戻した。アフロディーテの透明度の高い薄水色の瞳が捉えたカノンの濃蒼色の瞳は、複雑な色合いを宿して揺れていた。

「……ったく、どうしようもねぇ甘ったれだな、あいつは……」

不意にアフロディーテに見据えられたカノンは、ややぎこちなくアフロディーテから視線を外してそれをテーブルの上に落とした。この話にカノンがどんな反応を返すのか、アフロディーテが興味津々であるのはその表情からも一目瞭然であったが、カノンの方は何と言っていいものやら言葉が見つからず、照れ臭さを隠すかのようにこの場にいないミロに向かって悪態をついてごまかしたのだ。

「仕方ないさ、我々にとってサガとアイオロスはそれだけ大きな存在だったんだから。増してミロは、誰よりもサガに懐いていたしね。それにあの時点ではアイオロスは反逆者の汚名を着て死んでたんだし、ミロが行方不明だったサガの存在に縋るような思いを抱いていたのも、無理ない話かも知れないよ」

アフロディーテも視線をコーヒーカップに落とし、小さく笑いながらそう言った。それを聞いたカノンは、いつもミロを子供扱いしているだけのアフロディーテが、存外にミロのことをよく見て、理解していることに軽い驚きを感じていた。

「なぁ、アフロディーテ……」

「ん?」

「この話……ミロにはしたことあるのか?」

「いや、ないよ」

カップを手にしたまま、アフロディーテはカノンの問いに即答して軽やかに首を左右に振った。

「サガには?」

「するわけないだろう」

これを話したら、少なからずサガも傷つく。サガを傷つけるような真似は、アフロディーテは絶対にしたくなかった。

「アイオロスにも?」

「してないよ。て言うか、誰にもしたことないし、するつもりもなかったよ」

さらりと言って、アフロディーテはカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。

「それじゃ、何でオレにその話をしたんだよ?。しかもこんな唐突にさ……」

今まで誰にも言わず、これからも誰にも言うつもりもなかったということは、本当に今し方までアフロディーテはこのことを自分の胸にだけしまっておくつもりだったのだろう。それが何故いきなり、カノンに話す気になったのだろうか?。アフロディーテの意図するところが、カノンにはわからなかった。

「さぁ?、何でだろうね?」

アフロディーテは悪戯っぽく笑いながら、わざとらしく首を傾げて見せた。

「……何を考えてるんだ?、お前は」

「別に何も。ま、強いていうなら、面白そうだったから……かな?」

「何だそりゃ?」

「君がどんな反応を示すか、興味があったのさ」

あからさまにからかうように言って、アフロディーテは席を立った。単なる興味だけとはカノンには思えなかったが、かと言って今それを聞き返したところでアフロディーテが本当のことを答えるようにも思えず、結局それ以上追及することはできなかった。

「じゃ、私はまだ用事があるからそろそろ失礼するよ。ここは君の奢りでいいよね?。迷子救出手数料ってことで」

「だから迷子迷子うるせぇっつってんだよ!。わぁ〜ったから、行くならさっさと行け!」

思いっきり嫌そうに顔を歪めて、カノンは早よいけ!と手を振った。確かに迷子になってたのは事実だし、結果的にアフロディーテが助けてくれた形になったのも事実だが、厄介な人間に厄介なところを見られてしまったことに変りはないようだった。ごちそうさま♪と機嫌よく言い残して、アフロディーテはしなやかな足取りで店を出ていった。

「ったく、あんにゃろう、何だかんだと最後まで上手くごまかしやがって……。ホントに一体何考えてんだかな」

結局アフロディーテはカノンの問いを上手くはぐらかし、最後まで何一つ満足な答えを返さないままだった。カノンはアフロディーテが美しい外見に似合わずの、かなりの曲者であることを再認識したような思いであった。

「にしても、あんな話を聞いちまうと……これだけで済ませるわけにもいかなくなっちまったな……」

カノンはジャケットのポケットから小さな袋を出し、自分の眼前でそれを軽く揺さぶりつつ、ボソリとそう呟いて何とは無しに溜息をついた。

それはカノンがミロにと用意した、誕生日プレゼントであった。


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