翌朝7時30分。 平素であればカノンとってはまだまだ早朝とも呼べる時間で、仕事でやむを得ない場合などを除いては頼まれても起きない時間である。仕事の時だってサガが苦労してカノンを叩き起こすのが常で、絶対に自ら進んでなど起きてはこない。そのカノンが、今日に限っては自分の意志で、なけなしの根性を振り絞って起床したのだった。 昨夜は喜び勇んだミロが、大張切りでいつも以上に頑張ってしまったため、2人揃って眠りについた時刻は午前3時をとうに回っていた。激しい運動をした直後であるから、当然のごとく眠りに落ちるなり爆睡。いつもであればこのまま昼までノンストップ爆睡モードなのだが、今日だけはそう言うわけにもいかない事情がカノンにはあった。 しかもミロのことは間違っても起こせないので目覚ましは使えず、かと言ってこんな状況下ではさすがにサガに頼るわけにもいかず、でも自力で起きる自信などとてもなかったカノンは、昨夜のうちに自分で自分に軽い幻朧拳をかけておいたのだった。カノン的には大変な苦労である。 最も、幻朧拳の力を借りたからとて眠いものは眠い。カノンは根性と体力と小宇宙を総動員して何とかベッドに半身を起こしたものの、寝不足特有の靄がかったような頭の鈍い痛みと重みでボーッとして、すぐにベッドから降りることは出来なかった。 10分ほどベッドの上に座り込んで、無為に時を過ごしてから、ようやくカノンはベッドから降りた。頭だけではなく腰にも鈍い痛みが残っている。その痛みに顔をしかめつつ、カノンは床に散った自分の下着と服をかき集めて、真っ先に浴室へと向かった。とにかく、頭をしゃっきりさせるのが先決だし、昨夜の名残も洗い流しておかなければいけないからだ。 さすがにこの季節では、昨夜の残り湯は冷めきっている。かと言って湯を張り直している時間もないので、カノンは取り急ぎシャワーだけを浴びた。
正にカラスの行水状態でシャワーを済ませると、少しだけ頭がはっきりとしてきてやっと体も動くようになった。カノンは急ぎ衣服を身に着けると、髪の毛も乾かさずに今度はキッチンへと直行したのだった。
体を揺すられる感覚に続いての自分を呼ぶ声に、ミロは眠りの縁から呼び覚まされた。 「ん〜〜〜まだ眠いよ〜……もちっと寝かせてくれ〜……」 まだ半寝状態で、ミロは懇願した。カノンが自分を起こしているのかとかはわかっていたけれど、まだ眠気の方が遥かに勝っていて、上下にくっついた瞼を開けることが出来なかった。それより以前に、自分以上に寝汚いカノンが自分より先に起き、自分を起こしていると言うこの驚愕の事実を、ミロはしっかりと認識すら出来ていない有様なのである。 「ざけんな!。さっさと起きやがれ!」 怒鳴るなり、カノンは毛布をひっぺがした。当然のことながら素っ裸で寝ているミロは、いきなり素肌に冷たい空気の直撃を食らった。その冷たさにさすがにビックリして、ミロはベッドから飛び起きた。 「寒みっ!!。いきなり何すんだよ!カノンっ!!」 飛び起きるなり、ミロはまだちゃんと開かない目を擦り擦りカノンに文句を言った。そして直後、はたっ、と気付く。カノン?、今自分を起こしているのは、カノン?。 「……って、あれ?、何でカノンがもう起きて……んだ?」 ここに来てやっとカノンの生態系を思い出したミロは、寒さも忘れて正面の壁の方に向かって独り言のように疑問符を投げ掛けた。すると、 「ほらよ」 いきなりその目の前に、トレーに乗ったコーヒーを突き付けられる。コーヒーの香気が、ミロの鼻腔を擽った。 「……へっ?」 ミロはやっと顔を上げ、カノンの方を見た。そしてまた直後、驚きにギョッとその目を見開く。 「カ、カノン?。何、そのカッコ……」 コーヒーの乗ったトレイをミロに向かって差し出したカノンは、仏頂面に近いやや険しい顔つきでミロを見下ろしていたのだが、何と髪の毛を後ろに1つに束ね、エプロンを掛けて立っているではないか!。ミロは驚きの余り、もしかして今自分は夢を見ているのではないかとさえ、疑った程であった。 「るさいな。余計なことつべこべ言ってないで、さっさとこれ飲んで目ぇ覚ませ。朝飯だぞ!」 早口にそう言うと、カノンはグイッとトレイごとコーヒーをミロに押し付けた。 「あ、朝飯?!」 ミロは素っ頓狂な声をあげながら、呆然とそのトレイを受け取る。 「早くしろ、飯が冷める。ああ、その前に……」 カノンは身を屈めると、やはり床に散らばっているミロのTシャツとスエットパンツをポイポイとミロに放り、 「服着ろ、服!。素っ裸でみっともねぇ!」 そう言ってキッとミロを睨みつけた。 みっともないって、服を着る余裕すら与えてくれなかったくせに……とミロは思ったが、言い知れぬカノンの迫力と、先刻からの信じられないこの展開にまだ頭がついていけず、やはりボケッとしたまま頷くのが精一杯だった。 とりあえずトレイ片手にミロはスエットパンツだけを履いてから、カノンの淹れてくれたコーヒーを啜った。 「あ、美味い……」 1口飲んだ瞬間に、ミロは無意識のうちに声をあげていた。いつも自分が買っておいてあるコーヒーとは明らかに味が違うのが、起き抜けのミロにもわかったのだ。 「アルデバランからだ」 カノンが言うと、ミロはきょとんとした目をカノンに向けた。 「アルデバランが何で?……って、あっ、そっか、誕生日!!」 「やっと思い出したか、マヌケ」 言いながらカノンは苦笑した。昨夜も誕生日だからと言うことで散々サービスしてやったのに、寝ている間にミロはそのことをコロッと忘れていたらしい。 「それじゃ……カノンは……」 やっとこさっとこミロは思い出した。これが、自分が切望してやまなかった、朝の光景だと言うことを。いや、厳密に言えば些か……と言うかかなり頭の中で思い描いていたものとは違ってはいるが、どうやらカノンが心密かに自分が抱いていたその望みを叶えようとしてくれていることだけは、紛れもない事実のようであった。 全てを理解したミロが、カノンの顔を凝視した。すると照れ臭いのか何なのか、カノンは僅かに頬を赤らめてふいっとミロから目を逸らす。 「きょ、今日だけだからな!」 ミロにじっと見つめられ、カノンは顔を更に赤くしながら乱暴に言った。それでもミロは嬉しそうに頷くと、世にも珍しいエプロン姿のカノンを眺めながら、幸せそうに微笑んで再びコーヒーに口をつける。サガのエプロン姿は見慣れているが、同じ容姿とは言え、カノンのエプロン姿はサガとはまるっきり違った印象を与えるから不思議だった。どこかマッチ仕切れていないと言うか何と言うか、この微妙な違和感は正に新婚ホヤホヤの新妻と言った感じである。 かつて羨んで止まなかった、アイオロスと同じ朝を迎えられ、ミロは感激することしきりであった。 「あ、そうだ」 立ち上るコーヒーの湯気と香気を楽しみつつ、不意にミロが声をあげた。 「何だよ?」 カノンが怪訝そうにミロに視線を戻すと、 「おはようって、言ってもらってない」 「はぁ?!」 「だからぁ〜、オレを起こしてくれたのはいいけど、開口一番『ざけんな!』だったろ?。だから『おはよう』って言って欲しいんだけど……」 そう言ってミロはカノンに向かってニッコリと微笑んだ。 「…………」 カノンは呆れたような怒ってるような困ってるような、何とも言えぬ複雑な表情をしていたが、やがて 「……おはよう……」 これ見よがしに大きく溜息をついてから、小声でボソリと言った。 「おはよ!」 ミロは先刻にもまして晴れやかに微笑み、元気に応じる。非常に嬉しそうだった。 「ついでにもう1つ」 「今度は何だよ?、まだ何かあんのか?」 まだ何かを言いたげなミロに、うんざりしたようにカノンが聞き返す。 「おはようのキス♪」 「はぁぁ〜〜〜?!」 「だから、おはようのキスしてくれ。ここでいいから♪」 ミロは自分の頬をつんつんと突きながら、これ幸いとばかりにカノンにキスを強請った。 「なっ、何調子こいてバカなこと言ってんだ、お前はっ!!」 ついぞいつもの調子でカノンが怒鳴り声をあげると、ミロはたちまち口を尖らせて 「誕生日!」 わざと切なげに表情を曇らせて、上目遣いでカノンを睨む。いや、睨むと言うよりは、縋るような目でじっと見つめたと言った方が正解だった。 「…………」 カノンはまたもや絶句し、返すべき言葉を見出せなくなった。普段だったら一発頭を張り倒せば済むことなのだが、さすがに今日は、今日だけはそう言うわけにはいかなかった。 「ったく〜〜〜……」 悔しげに呟き、ミロを一睨みしてから、カノンは諦めたように、ミロの頬に軽く触れるだけのキスをしてやった。 念願の「おはようキス」を頬にもらい、ミロは幸せ全開の満面の笑みを浮かべる。その笑顔を見て、朝も早くからカノンがドッと疲れたことは言うまでもない。 残すところあと14時間半、カノンは自分の忍耐力がどこまで続くのか、早くも不安になっていた。
目覚ましのコーヒーを飲み、完全に衣服を身に着けダイニングに出ていったミロは、テーブルの上に並んでいるブレックファーストを見て、思わず大きく目を瞠り、驚きの声を張り上げた。 と、言っても、別段ものすごい豪華な朝食が並んでいたわけでは、もちろんない。 フレンチトースト、スクランブルエッグ、サラダにフルーツヨーグルト、そしてミルク。手の込んだメニューではないが、パッと見の見目は悪くなく、サガが作ってくれる朝食とひけは取らない。ミロは嬉々とした瞳を輝かせて、カノンを見た。 「これもカノンからオレへの誕生日プレゼント?」 カノンは黙ったまま、またもや頬を微かな朱に染めて本当に小さく頷いた。ミロがそんなカノンを興味深く凝視したまま、僅かに小首を傾げる。 これは正に自分がかねてから望んで止まなかった朝の光景ではあるが、何故カノンがこのことを知っているのか、ミロはそれを聞きたかったのだ。 ミロの目が明らかに『どうして?』と聞き返していることを読み取ったカノンは、ほんの少し困ったように眉を寄せ、数秒ほど考えてから、静かに口を開いた。 「……アイオロスに聞いたんだ。お前が……オレにその、朝飯作ってもらいたがってるって。だからせめて誕生日の日くらい、その願いを叶えてやれって……」 モゴモゴと口篭りながら、カノンが言う。やっぱりそうか、と、ミロは心の中で呟いた。少し前の話になるが、ミロはアイオロスに「カノンは朝飯1つ作ってくれたことがない」と、愚痴めいたことを溢したことがある。結局その場でアイオロスに宥められ、諭されるような形で話は終わったのだが、つまりこの事実を知っているのはアイオロスだけで、アイオロス以外にカノンにこれを入れ知恵できる人間は居ないのである。或いはアイオロス経由でサガの耳に入った可能性はなきにしもあらずだが。 「そっか、それで……」 ミロは熱のこもった瞳を、再びテーブルの上に戻した。超絶不器用人間のカノンが、これを作るのにどれほど苦労をしたか、想像に難くない。普段であれば絶対に嫌だと言い張るはずだし、ましてそれを言った相手がアイオロスとなると、アイオロスへの意地だけで突っぱねてもおかしくはなかったのだ。それをあっさりと聞き入れたのは、カノンはカノンなり、ミロの誕生日を大切に思っていてくれたからに違いない。ミロは嬉しさと愛しさとに、自分の胸の内がカッと熱くなるのを感じた。 「ありがとう、カノン……何かオレ、すっげぇ嬉しいよ。今までで一番……今日が最高の誕生日かも知れない……」 幼い頃……まだ自分たちが黄金聖闘士候補生だった頃は、各自の誕生日を必ずサガとアイオロスが祝ってくれた。厳しい訓練ばかりの毎日だったが、誕生日の日の思い出だけには楽しいことがいっぱい詰まっている。 だがこの13年間は、誕生日にいい思い出など1つもなかった。誕生日だからと浮かれていることなんかできなかったし、それより以前に誕生日のことなど忘れていた。いや、忘れようとしていたのだ。幼き日の良き思い出が、逆に辛い気持ちばかりを呼び起こしてしまい、ミロにはそれが耐えられなかった。 カノンも少し切なげな顔になって、ミロの顔を見直した。ミロの内心が、カノンには手に取るようにわかる。カノンもまたミロと同様、いやそれ以上に、誕生日には辛い思い出しかなかったのだから。 「バ〜カ、何をらしくもなくしおらしいこと言ってんだ。ホラ、さっさと食えよ、冷めるぞ」 だがカノンはそれ以上のことには言及せず、瞬時に表情を改めて冗談混じりに言うと、ポンとミロの頭を叩いた。 「うん!」 カノンの笑顔につられるようにしてミロも笑顔を作り、また嬉しそうな顔で大きく頷いた。 「うわ、すげぇ、美味そ〜。カノン、やれば料理だって出来るんじゃん!」 テーブルについたミロは、目の前に並ぶカノン作の朝食を再びマジマジと見ながら、感嘆の声をあげた。思っていた以上のミロの喜びっぷりに、カノンも内心では今日の成果に十二分に満足をしていたのだが、よくよく考えてみればそんなに大袈裟に感動されるようなものでもない。多分、小学生にでも簡単に作れるであろうメニューである。作ったのがカノンだったからこの程度でも充分称賛に値してしまっただけの話なのだが、幸運にもカノンはそのことには気付いていなかった。 「まぁな。オレがちょっとマジになりゃ、こんなモンだ」 得意気にカノンは言ったが、常日頃の彼をよく知っているだけに、そう簡単に事は運ばなかったであろうことは、ミロにも容易に想像がついた。
そのミロの想像通り、カノンはここに辿り着くまでに大小色々な難関を経てきていたのである。これももちろん、『カノン的には』と言う注釈つきではあるのだが。
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