冥界との聖戦後、聖域の黄金聖闘士達が女神の加護により現世に再生を受けてから、一ヶ月余りの時が過ぎた。
再生を受けた直後は、個人レベルでそれぞれ大小色々とあったようではあるが、それも万事いい方へと解決し、新しい生活が漸く一定したリズムで穏やかに流れ始めていた。
そんな休日の、とある一日のこと。
その日、サガとカノンの双子の兄弟が守護する双児宮のリビングには、兄・サガが先だって無事に復縁を果たした恋人・アイオロスが訪れており、カノンを交えた三人で、のんびりゆったりした午後の一時を過ごしていたのだが、

「ん? 誰か来たぞ」

サガが淹れたコーヒーを啜りつつ、和やかに談笑していたところへ、突如双児宮の私室の玄関が叩かれる音が響いた。
カップを持った手を止めて、アイオロスが隣に座るサガの方へ向き直ると、サガも誰だろう?というような様子で小首を傾げる。だが外に誰がいるのかはわからないが、来客であることに変わりはないし、応対にでないわけにもいかない。サガがコーヒーカップをテーブルに置き、腰を浮かしかけると、

「ああ、いいよ、オレが出る」

そのサガを制してカノンがソファから立ち上がると、多分ミロじゃないかな?、と言い残して、カノンは玄関の方へと向かっていった。

「ミロか、なるほど」

普段であれば滅多に自分から来客の応対になどでないカノンが、珍しく自分から腰をあげたと思ったら……。なるほどそういうことだったのかと、アイオロスは思わず小さな笑いを溢した。さり気ない風を装っているが、どうやらカノンはミロが来るのを待っていたようである。結構カノンにも可愛いところがあるんだな、と思いつつ、アイオロスはサガと顔を見合わせて、もう一度笑いあった。





ドアの外にいるのはミロと無意識のうちに決めつけていたカノンは、ドアを開けた瞬間、驚いて目を点にした。ドアの前には誰もいなかったからである。
一瞬、気のせいか何かの間違いか、それとも幻聴か?と疑ったカノンだったが、たった今自分がドアを開ける直前までドンドンと喧しくノックされてたし、誰もいないわけはない。カノンが不思議に思いつつ何気なく視線を下方へ移すと、20数センチほど下に、黒に近い焦茶の、何かふかふかしたものが見えた。何だ?!と思って更に視線を下げると、今度は自分を見上げる黒に近い焦げ茶色の、パッチリとした大きな双瞳とぶつかった。すると焦げ茶色の瞳は更に大きく見開かれ、きらきらと輝き始めた。その目にも顔にも姿にも、カノンは嫌というほど見覚えがあった。

「サガ!」

カノンが口を開こうとしたその瞬間、小さな来訪者はいきなりカノンの兄の名を呼んで、カノンに飛びついた。
不意打ちを食らったカノンは、飛びつかれたその勢いで思わず後ろに一歩よろめいた。

「サガぁ〜! よかった、よかった、本当に生き返ってたんだね!」

小さな来訪者はカノンの首にしがみつき、肩口に顔を埋めて今にもわんわん泣きだしそうな勢いで、捲し立てた。
カノンは一挙に脱力して、思わず溜息をついた。

「……感涙にむせんでいるとこ悪いがな、ペガサス。人違いだ……」

そう、来訪者は日本の城戸邸を守護しているはずの、ペガサス星矢であった。
カノンに言われた星矢は、へ?と間抜けな声を上げてカノンの肩口から顔を上げると、カノンにしがみついたまま至近距離でマジマジとカノンの顔を見つめた。その後、何を思ったか星矢は今度はカノンの肩口に耳を押し当てるような格好を取り、5秒ほどう〜〜〜ん、と悩んだ末、

「あ、ホントだ、サガじゃない、カノンだ!」

と、ケロリと言って、再び顔を上げてカノンを見た。
どうやら星矢はようやく微妙な小宇宙の違いを感じ取り、サガではないと判別をつけたようである。

「すっ、すみません! カノン!」

すぐ気付け!と思いつつ、カノンが自分にしがみついたままの星矢を呆れたように見下ろしていると、また下の方から別の声が響いてきた。星矢に視界を遮られていて見えなかったのだが、カノンがその星矢をよけるように首の角度を変えて声のした方向を見遣ると、そこにはもう一人、明らかに焦っている様子のドラゴン紫龍がいたのだった。

「ドラゴン、お前も一緒だったのか」

「僕達もです」

カノンが紫龍にそう声をかけると、開けたドアの裏からひょいっと亜麻色の髪と金色の髪をした少年が顔を覗かせた。アンドロメダ瞬とキグナス氷河である。

「何だお前達、揃ってどうした?!」

「はぁ、その……。星矢、とにかく降りろ。カノンに迷惑だぞ」

事情を説明し始める前に、紫龍は未だカノンにぶら下がったままの星矢のTシャツの裾を掴み、カノンから離れろと促した。紫龍に言われてようやく気付いた星矢は、「あ、そうか、悪ぃ悪ぃ」と言いながら、子犬のように身軽な動作でしがみついてたカノンから飛び降りた。

「やっぱ双子だよな〜、パッと見ただけじゃ見分けつかないや」

人違いをしたことに悪びれもせず、星矢はカノンを見上げながらけらけらと笑った。
何か同じような台詞をどっかで聞いたような気がするし、同じようなこともされたような気がする……と思いながら、カノンは溜息をついた。

「で、サガは? いるんだろ? サガ」

「ああ、中にいるけど……」

「お邪魔しまーすっ!」

カノンが言い終わらぬうちに、星矢は大声でそう怒鳴ると、カノンの脇をマッハの速度で擦り抜けて、双児宮の中へ飛び込んだ。

「せ、星矢、こらっ! あ、すみません、お邪魔しますっ!」

こちらはカノンに律義に頭を下げてから、紫龍も星矢を追って双児宮の中に飛び込んだ。
どうやら紫龍は、星矢のお目付け役らしい。

「……何だありゃ?」

カノンが呆気にとられていると、その場に残された瞬と氷河が申し訳なさそうに交互に口を開いてカノンに言った。

「すみません、星矢、ずっとサガに会いたくていたものですから……」

「でも沙織さん……女神に、黄金聖闘士達の生活が落ち着くまでは十二宮に行っちゃダメだって止められてたんで……」

「なるほど。で、やっと女神のお許しが出てここに来ることが出来たんで、念願叶ったペガサスはオレとサガの見分けすらつかないほど浮かれまくってる、と、そういうわけか?」

「はい」

瞬と氷河が声をそろえて返答し、頷く。
これでカノンもようやく事の次第を理解し、それじゃ仕方がないかと諦めたように肩を竦めた。

「ま、浮かれてるのはどうやらペガサスだけではなさそうだがな」

そして今度は目の前の氷河と瞬とを見遣りながら、カノンは苦笑混じりの笑みを溢す。
目の前の二人も明らかに嬉しそうな、わくわくしているようなそんな素振りを見せていたからだ。
図星をつかれた二人は、顔を見合わせて照れ笑いを交わしあうと、今度はおもむろに瞬がカノンの前に一歩歩み出て、いきなりその手を取った。

「その通りです。僕も……カノンに一番会いたかった。冥界では、本当に色々お世話になりました!」

瞬はカノンの手を握り、瞳を揺らめかせながら訴えるように言った。
冥界でカノンに手厳しい説教を食らった瞬だったが、逆にそれ以来、すっかりカノンを尊敬し、心酔していたのだった。だがそんなこととは知らなかったカノンは、面食らった状態で思わず瞳をパチクリと瞬かせた。2秒半の後、瞬の好意が本物であると察したカノンだったが、逆に何と言っていいものやら返答に困ってしまい、ただ曖昧に引きつり笑いを浮かべることしか出来なかった。好意をこうストレートにぶつけられるというのも、案外困るものである。

「ま、まぁこんなところで立ち話も何だから、お前達も中に入れ。って、キグナス、お前はこのまま宝瓶宮に上がるか?」

星矢はサガ目当て、瞬は自分目当て(どこまで信じていいものやら多少疑ってはいたが)となれば、氷河の目当ては師であるカミュの他にはいないはずだった。となれば彼がまず真っ先に向かいたい場所は、宝瓶宮である。

「いえ、少しこちらにお邪魔させていただきます」

だが意外にも氷河はそれに首を振った。実は星矢を追って中に入った紫龍は、シュラに一番会いたがっている。そのシュラは宝瓶宮の1つ手前の磨羯宮の主なので、落ち着いたら紫龍とともに上に上がっていこうと氷河は思っていたのである。
もちろんカノンはそんなこと知る由もなかったが、寄りたいというのを拒む理由はなかったので、そのまま瞬と氷河を双児宮へ招じ入れたのだった。




「星…矢…?」

サガは突然リビングに入ってきた星矢に、やはり目を丸くして驚いた。
アイオロスが「えっ?、この子が?」と確認を求めるようにしてサガを見遣ったが、サガの方にはそれに答えている余裕はなかった。何故なら、今度こそ本物のサガと確認した星矢が、先刻カノンにしたのと同様、目にも止まらぬ早さでサガに飛びついたからである。

「サガぁ〜!!」

サガに抱きついた星矢は、サガの肩口に顔を埋めて泣きだした。

「よかった、生き返ってくれて。本当によかった……会いたかったよ、サガ!」

最初こそビックリはしたものの、サガはすぐに落ち着きを取り戻すと、ぐすぐす泣いている星矢の体をしっかりと抱き留めて、その焦茶の髪を優しく撫でてやった。

「すっ、すみません! サガ」

後ろから追いついてきた紫龍が、既にサガにダッコちゃんしている星矢の姿を見て、またしても顔色を変えて慌てて頭を下げる。

「星矢、ご挨拶もせずにいきなりそんなことしたら、サガに迷惑だろう!」

紫龍はまたさっきと同じように星矢のTシャツを引っ張って星矢をサガから引き離そうとしたが、星矢はサガから離れようとしなかった。ますます困った紫龍が、更に強く星矢のTシャツをひっぱると、サガは紫龍の方へ軽く片手をあげ、

「いいんだよ、紫龍。それよりよく来てくれたね、久しぶりだ」

笑顔を作って年に似合わず苦労性の後輩を労うように言った。
サガの寛容な言葉と優しい笑顔に紫龍はホッとしたように表情を緩めた後、礼儀正しくサガに向かって一礼した。

「星矢もよく来てくれたね、元気だったかい?」

星矢のふかふかの髪を撫でつつ、サガが同様の質問を星矢に向けると、星矢はガバッと顔を上げ、「もちろん!」嬉しそうに微笑みながら大きく頷いた。

「本当はすぐにでも会いに来たかったんだ。真っ先に、サガに会いたかった。でも沙織さんが、聖域の方もまだ色々大変だからって、許してくれなくて、それで……」

サガに熱い想いを訴えるかのごとく、そこまで一気に言った星矢は、突然中途半端に言葉を切った。サガがどうした?と聞き返すより先に、自分に向けられていた星矢の顔と視線が動く。それを追ってサガも視線を動かすと、間もなくその視線は隣にいるアイオロスにぶつかった。どうやら星矢は、今ようやくアイオロスの存在に気付いたようである。
アイオロスはといえば、事の次第に唖然呆然としているといった様子で、ポカーンと些か間抜けな顔でサガと星矢とを見つめていた。

「あれ? アイオリア……?」

星矢はそう呟いた後に、小首を傾げた。
サガの隣に誰かが座っていると気付き、そちらに目を遣ったその瞬間には完全にアイオリアだと思った星矢だったが、それにしては奇妙な違和感があった。アイオリアのことは星矢は良く知っている。だが自分の良く知るアイオリアとは、隣に座っている男は何かが微妙に違うのだ。それでも星矢は『アイオリアだよな……?』と、確認するように更にマジマジとその顔を見ていたが、ややしばらくしてそこにいるのがアイオリアではないことに漸く気付いたのだった。
座っている状態なので最初はわからなかったのだが、隣に座る男はアイオリアより体躯が一回り大きく、何より決定的に違ったのは、その瞳の色だった。アイオリアの瞳の色はきれいな緑色だが、隣に座っている男の瞳の色はやや薄めの色調の、透けるような青色だった。
明らかにアイオリアとは別人、だがこれだけアイオリアに似ているということは――

「アイ…オロス?」

星矢はやや自信なさ気に小さな声で、アイオリアの兄の名を呟いた。紫龍もアイオロスの方へ視線を向けて、星矢と同じようにじっとアイオロスを見つめている。

「そうだよ、彼がアイオロスだ」

サガの静かな声が星矢の鼓膜に届くと、星矢の顔が再びパァッと明るくなった。

「アイオロス、あなたがアイオロスか!」

この人が女神を救った伝説の英雄・サジタリアスのアイオロス。いや、女神だけではない、この人の強靱な遺志が宿ったサジタリアスの黄金聖衣に、幾度も危急を、命を救われたのは、他の誰でもない星矢である。
今までその名と功積しか知らなかった偉大なる先輩が、そして命の恩人とも言えるべき人が、今、自分の目の前にいるのだ。感動と喜びに、星矢の心が一段と躍り始めた。

「君が星矢か。サガから話は聞いているよ」

唖然としていたアイオロスも、ようやく気を取り直して表情を改めると、先輩らしく落ち着いた態度で星矢に微笑みかける。
星矢はサガの膝の上に乗ったままアイオロスの方へ上体を伸ばすと、おもむろにアイオロスの手を取ってその手を握り締めた。

「こんな風にして会える日が来るなんて、思ってもみなかった。オレは…いや、オレ達はあなたの遺志に、あなたの聖衣に、何度助けてもらったかわからない。本当にありがとう、アイオロス」

「ありがとうございます、アイオロス」

星矢に続いて、紫龍もアイオロスに頭を下げた。
二人の少年にいきなり頭を下げられ、しかも熱い視線を向けられ、さすがアイオロスもたじろいで苦笑いをしたが、

「あ、えっと……君は?」

星矢のことは否が応にもわかったが、このちょっと大人びた感じの少年が誰なのかアイオロスにはわからなかった。青銅聖闘士達のことはもちろん話に聞いてはいるが、いかんせんアイオロスのとっては一面識もない相手なのだから無理もない。厳密に言えばつい今し方、サガがその名を呼んではいたのだが、呆然としていたアイオロスはそれをきれいに聞きのがしていたのである。

「彼は紫龍。老師様の弟子で、ドラゴンの聖闘士だよ」

紫龍に代わってサガがそれに答えると、紫龍は今一度アイオロスに向かって頭を下げた。

「ああ、君が老師様の弟子のドラゴンか!」

「はい」

「君達には早く会ってみたいと思っていたんだ。よく来てくれた」

紫龍に握手を求めようとしたアイオロスだったが、星矢にしっかり手を握られているのでそれはできなかった。それでも爽やかな笑顔を向けてアイオロスが言うと、紫龍は恐縮したようにまた小さく会釈をしてから、嬉しそうに星矢と顔を見合わせた。

「そうだ、お前達二人で来たのか?」

ふとそのことに思い至り、サガが星矢に尋ねた。

「ううん、氷河と瞬も……」

と星矢が言いさしたところへ、カノンが当の二人を連れてリビングに入ってきた。
アイオロスとサガの視線が、同時にそちらへ動く。

「こんにちは、サガ、アイオリア」

二人と目が合った瞬と氷河が声を揃えてよい子のご挨拶をすると、

「違うよ、あれはアイオリアじゃない」

即座にすぐ後ろから、カノンの訂正の声が入った。

「え?」

氷河と瞬が同時にカノンを振り返ると、そのなかなかのコンビネーションの良さにカノンは思わず笑いを溢した。

「あいつはアイオリアの兄貴。サジタリアスのアイオロスだ」

「アイオロス!? あの人が!?」

カノンが頷くと、二人の表情が憧憬と尊敬のそれへと瞬く間のうちに変化し、瞳がキラキラと輝き始める。あまりにわかりやすい少年達のその変化に、カノンは思わず吹きだしそうになった。
笑いを堪えつつ、カノンは「ほら、行ってこい」と二人の背をアイオロスの方へ押し出した。
青銅聖闘士達にとって、アイオロスは自分達の師に勝るとも劣らないほど尊敬できる英雄なのだ。その憧れの英雄であるアイオロスがいるともなれば、こういう反応を示して当然だろう。最も、常日頃サガにメロメロなアイオロスばかりを見ているカノンにとっては、些かおかしくもあったが。
カノンに促され、瞬と氷河は小走りにアイオロスの元へ駆け寄ると、アイオロスに向かって頭を下げた。

「初めまして、キグナス氷河です」

「初めまして、アンドロメダ瞬です」

二人が口々に自己紹介すると、アイオロスも先の二人に対してと同じく、気さくに応じる。今まで静かだった双児宮が、青銅聖闘士の来訪により一気に賑やかになった。
あっと言う間に青銅聖闘士達に囲まれ、一躍アイドル状態と化した英雄・アイオロスは珍しく少し照れ臭げにしていたが、それでもさすが子供の扱いには慣れているようで、結構上手いこと青銅達の相手をしているのである。少々見方を変えると、同化しているようにも見えるのだが。
微笑ましいんだかやかましいんだかよくわからないその光景を、出入口に立ったまま苦笑混じりに眺めていたカノンは、ふと一つのことに気がついて、意外と感心が入り交じったような独り言を知らず知らずに漏らしていた。

「へぇ〜、アイオロスってちゃんと日本語喋れるんだな」

青銅聖闘士達は気付いていなかったが、アイオロスはちゃんと日本語で会話をしていたのである。


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