バレンタインの翌日、ミロは前夜お泊まりした双児宮から直接教皇宮へ出勤することになった。
自宮である天蠍宮を素通りし人馬宮を通り抜けようと通路を歩いていると、ちょうど私室の前を通った時に玄関が開いて中からアイオロスとサガが出て来た。
「おう! ミロ」
「おはよう」
アイオロスとサガが口々にミロに声をかける。
「おはよう。アイオロス達もこれから出勤?」
挨拶を返しながらミロが尋ねるとアイオロスは頷き、
「お前もだろう? 一緒に行こうぜ」
気軽に言ってミロの金髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
そのままアイオロスとミロが肩を並べ、サガが二人の半歩後ろについて歩き始める。
「ご機嫌だね、アイオロス。昨日何かいいことあった?」
人馬宮を出たところで、ミロが明らかに上機嫌な様子のアイオロスに尋ねた。
「わかるか?」
「そりゃわかるよ」
アイオロスに聞き返され、ミロは苦笑混じりに即答した。
ミロはアイオロスの上機嫌な理由に察しがついているが、それがなくとも今にも鼻歌を歌い出さんがばかりの勢いで浮かれているアイオロスの様子を見れば嫌でもわかると言うものである。
「昨日のバレンタインにな、サガから手作りのプレゼントもらったんだ。チョコレートブラウニーだったんだが、これがメチャクチャ美味くてな。見た目も完璧で、プロのパティシエ顔負けの逸品だったんだぞ」
ミロが先を促すより早く、アイオロスが満面の笑みで文字通り嬉々として昨日のことを話し始めた。
「ああ、うん、知ってる。あれ美味かったよね」
ミロはアイオロスが絶賛しているチョコレートブラウニーが、実はカノンが作ったものであることを知っている。
もちろんそれをアイオロスにばらすつもりはないし、『サガが作った』ということで話を合わせるつもりでいたのだが、アイオロスの絶賛を聞いて反射的に誇らしい気持ちになってしまい、ついうっかり迂闊な同意をしてしまったのだ。
ミロが自分のうっかりミスに気付き、しまった! と思った時にはもう遅かった。
「……何でお前がそんなこと知ってるんだ?」
次の瞬間アイオロスの顔色が変わり、浮かんでいた笑みが消えた。
「えっ!? あ、いやその……」
思わず返答を詰まらせながら、ミロはアイオロスのすぐ後ろのサガに視線を動かした。
サガは顔色を変え表情を固めてミロを見返していたが、その様子から尋常ではない焦りが見て取れる。
「サガ、お前もしかしてミロにもアレをあげてたの? オレだけの為に作ってくれたんじゃなかったのか!?」
アイオロスは今度はサガの方に振り向き、彼を問い質した。
「あ、いやそれは……」
カノンが余分に作っておいた物をミロが食べていたことすら知らなかったサガは、状況が全く見えずにただオロオロするだけで返答のしようがなかった。
「違う! 違うよアイオロス、サガからもらったわけじゃなくて、その、あ、余った分をカノンがくれたんだよ! ほら、切り分ける時に端っこの方とか余るだろ? でも捨てるの勿体ないじゃん? だからカノンがそれをサガにもらって、そのカノンからオレがわけてもらって食べただけ。だから美味しいってこと知ってるんだよ、形が整ってないだけで味は変わんないんだもん」
ねっ? とサガに同意を求めながら、ミロは目顔でサガに合図を送った。
自分に話を合わせろと言うことである。
手先は不器用でも頭はいいサガには、すぐに大体の事情とミロの意を理解することが出来た。
サガは安堵したように表情を緩めて極小さく吐息してから、同じく目顔で合図を返した。
「そうなのか?」
再びアイオロスがサガを振り返って聞くと、サガは無言で大きく頷いた。
「そっか、それならよかった……」
あからさまにホッと溜息をつき、アイオロスも強張らせていた表情を緩めた。
それと同時にミロとサガも、心の中で大きく安堵の溜息をついていた。
事情を全く知らないアイオロスからしてみれば、件のチョコレートブラウニーは『サガが『本命』の自分の為だけに作ってくれた特別な物』なわけだから、同じ物が他の男の手にも渡っていたとなったら動揺せずにはおれないだろう。
そう考えればアイオロスのリアクションも当然と言えば当然だし、彼の気持ちもわからないでもないが、ミロとしては少々釈然としない部分がないでもなかった。
言うまでもなく作り手がサガではなくカノンであることを知っているからだが、そんなミロの釈然としない思いは直後にすぐに消えてなくなった。
アイオロスにわからぬようちらりと伺い見たサガが、自分に向かって心底ホッとしたような顔で小さく手を合わせ、無言で謝意を示しているのを見たからである。
ミロはサガを小さい頃から兄とも親とも慕って来たが、こんな表情もリアクションも見たことがなかった。
初めて見るそんなサガにさすがにミロも驚いて一瞬目を丸めたが、すぐに微笑を作ってまた目顔で頷きを返した。
『サガにこんな可愛い一面があるなんて知らなかったな……』
そんなことを思いながら、ミロは二人にわからぬよう小さく忍び笑いを零した。
ミロが事情を知っていることを察して決まりが悪そうに身を縮め、猫の目のように表情をくるくると変えながら、アイオロスにわからぬようこっそりと自分に向かって手を合わせるサガは、凛として美しいいつもの彼とは違って非常に可愛らしく、ミロは新鮮な驚きを得るとともに胸の裡にほんわりとした温かなものを覚えていた。
ミロがそんな温かな気持ちに浸っていると、
「でもサガ、本音を言うとそういうのも全部オレにくれたら嬉しかったんだが……」
直後、アイオロスがサガの方を振り返り、やや苦笑混じりに言った。
それを聞いたミロは再び目を丸め、
「……アイオロス、それちょっとセコくない? いいじゃん別に端っこの方ちょっとくらい他の男がもらったってさ」
数瞬の間を開けた後、呆れたようにアイオロスに言った。
要は小さな欠片も一つ残らず自分に独り占めさせろとということなのだろうが、気持ちはわからないでもないがさすがにそれはちょっとセコいんじゃないかと思わずにはいられなかったからである。
それより以前に実際に作った人間が誰であるかを考えたら、本来その文句を言っていい人間はアイオロスではなくもしかして自分の方なのではなかろうか――とミロは内心で首を傾げずにもいられなかった。
「あ、いや、誤解のないように言っておくが、別にお前達に食わせたくなかったとかそういうケチ臭いことを考えたんじゃないぞ。ただ何て言うか、サガが作ったものはやっぱり全部オレが欲しいんだよ。サガの愛情が詰まってるものだからさ」
「…………同じじゃん」
ぼそりと呟きながらミロはまたしても心の中で、いやだからそれ本当はカノンが作ったものだからアイオロスへの愛情は多分一片も詰まってない……と呟いていた。
サガは沈黙したまま、ますます決まりが悪そうに身を縮めていたが、
「というわけで、来年はよろしく頼む」
「……は?」
続けられたアイオロスの言葉の意味がわからず、彼らしからぬ間抜けな声を上げた。
「だから、来年は丸ごと全部オレにくれってことでよろしく」
数秒後、アイオロスの言葉の意味を理解したサガは顔色をなくして彼に問い返した。
「ら、来年も私にチョコを手作りしろというのか!?」
「うん!」
アイオロスは満面の笑みで元気に頷くアイオロスとは対照的に、サガの表情が今度は絶望の色に染め上げられて行くのがわかり、ミロはうっかり吹き出してしまいそうになった。
"こんなことを頼まれるのは今年だけで、来年にはコロッと忘れてるはずだから大丈夫"とサガはカノンに言ったそうだが、カノンも懸念していた通りそうは問屋が卸さなかったようである。
この調子ではサガはまた来年もアイオロスに手作りチョコを強請られることは必至だが、幸か不幸か来年のバレンタインまでは丸一年の時間がある。これからカノンに教えてもらえば、充分間に合うだろう。
実際サガがどれほど不器用なのかミロは知らないが、さすがに一年もあればカノンからみっちり教えを受け、腕前を鍛えてもらうことは充分可能であるはずだ。
そうすればアイオロスも来年は正真正銘本物のサガの手作りチョコレートが食べることが出来る――かも知れない。
問題はサガがこのことを素直にカノンに話し、教えを請うことが出来るかどうかだが、サガのプライドには障るかも知れないがそもそも今回もアイオロスを喜ばせたいが為にカノンに頭を下げたという話だから、出来ないということはないだろう。
ただサガが再びカノンに頭を下げる決意を固めるまでもしかしたら長ーーーい時間がかかるかも知れないので、ここは自分が一肌脱いで事の次第を後でカノンに伝えておこうとミロは密かに決意を固めていた。
『頑張ってね、サガ』
心の中で力強くエールを送りながら、ミロはサガに笑顔を向けた。
その心の声がきっちり届いたのか、サガの表情を覆う絶望の色が一段階濃くなった――ようにミロには思えたが、多分気のせいだとスルーを決め込むことにした。
「ところでミロ……」
「ん?」
サガとの無言のやり取りが終わったところで、アイオロスが不意にミロに声をかけて来た。
「どうやらお前もいいことがあったみたいだな、昨日」
どこか確信に満ちた口調で尋ねながら、アイオロスがミロに笑いかける。
「うん、アイオロスに勝るとも劣らないくらいね」
ミロは間髪入れずに頷いて、破顔してみせた。
アイオロスは一瞬だけ面食らったように表情を動かした後、再び柔和な笑顔を作り、
「そうか……よかったな」
そう言ってミロの髪を優しく撫でた。